鈴木俊昭連載1

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連載第1回 左官鏝の歴史について

(有)スズキ金物店 代表取締役 鈴木 俊昭                                   

資料: (有)スズキ金物店 HP より



はじめに
左官職が壁を塗る道具として鏝があります。左官鏝は、仕上げの方法により異なる点もありますが、主として壁材を平滑に塗り拡げることに使われ、この鏝一つで多様な仕上げを作り出す技術の不思議さ・素晴らしさを、熟達した左官職の人達は持っています。

道具箱の中の鏝を見れば、その職人の技倆がわかるともいわれ、鏝は昔から大切に扱われてきました。また、かつて京都の左官職の家では、お正月に仏前に鏝の入った道具箱を供え、日ごろの感謝と一年の願いを祖先に念じ、入念に手入れされた道具一式を祭る習慣があったそうです。

平滑に塗り拡げることは、古代では始め人間の手の平で行われていましたが、その後壁を塗る道具が登場し、それは「小手」・「コテ」・「圬(こて)」・「鏝」という文字で呼ばれてきました。

このように、左官鏝は古代から現代まで壁塗り工事の長い歴史と密接な関係があったにもかかわらず、その成り立ち、製法、作者などについて、伝わる資料や伝承も少ないこともあって、近年まで研究が遅れていましたが、最近新たなる調査・研究発表が行われ、いままでの通説が覆ったりしています。

そこで、鈴木忠五郎著「誰にでもわかる左官工学/改訂版」(1980年)、山田幸一著「壁」(1981年)、佐藤ひろゆき・佐藤嘉一郎著「土壁・左官の仕事と技術」(2001年)、西山マルセーロ著「左官鏝形状の歴史的変遷と形状計測の統計的分析による考察」竹中大工道具館研究記要第18号(2007年)、建築資料研究社発行の雑誌「土と左官の本」と「土と左官の力」、また左官職の人や左官鏝を取り扱う金物問屋からお聞きした話などを参考にして、日本における最新の左官鏝の歴史を概観してみましょう。




(一)日本における左官鏝の出現
伝承として日本で左官関係の話が最も古く登場するのは、神功皇后の時代の210年ですが、神話の世界が交差してその真偽はよくわかりません。

日本における左官鏝の出現は、奈良時代に仏教が伝来すると共に、大陸の新しい建築技術が導入され多くの寺院建設が行われ、それらの寺院の土壁、漆喰壁を塗るために渡来した工人と一緒に持ち込まれた時期と思われます。
近年、当時の出土品から木鏝らしきものも見つかっていますが(※1参照)、どのような鏝が使われて壁が塗られたのかは、史料が残されていないためによくわかりません。

※1
故山田幸一教授は、著書「壁」のなかで、中国のタクラマカン砂漠の西端のシルクロードの要衝、パツソーから南北朝時代(420年頃から589年まで)のものとされる出土した木鏝を紹介しています。その木鏝は、鏝台の長さは約22cm、最大の幅は約13cmで、鏝先は尖っていて、柄である取手は鏝台とともに一木から作り出されています。


日本で出土した木鏝も、このようなものであったのではないかと推察されます。

日本最古の鏝として、飛鳥池遺跡(7世紀後半)と滋賀県湖西線関係遺跡(飛鳥時代以降)から、木鏝が出土しています。現在の中首鏝と同位置に柄を一本の木から削り出して作ったもので、柄首はありません。
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また鉄製の鏝が、駿河の国分寺に比定されている片山廃寺址から出土しています。長さ約15cm、幅約3cmの細長い鉄の台を持つ元首型のもので、木の柄がついていたものと思われます。現在の平キメクリ鏝150mmと呼ばれる鏝に近い形です。しかしこれが左官鏝であったという確証はまだありません。

これ以降、文献上では平安時代の寛平4年(892年)新撰字鏡に「鏝」の文字が見られますが、江戸時代の終わりごろまで、絵図に描かれた左官鏝を見るのみで、実物の左官鏝は発見されていません。




(二)絵図に見る左官鏝
左官鏝が描かれている最も古い絵図は、室町時代の「七十一番職人歌合」上壁塗です。萎烏帽子を被り、打刀(うちかたな)を左腰に差し(※2参照)、しゃがんだ姿勢で左手に鏝板を持ち、上げた右手で先の尖った鉄製の元首鏝を持った左官職人が描かれています。

※2
中世では烏帽子は社会の構成員として成人男性であることを示す標識でした。公家は立烏帽子、武家は侍烏帽子、庶民・職人は萎烏帽子を被りました。近世になると、庶民・職人などの成人男性は烏帽子を被らなくなります。


また当時は、申し出により打刀(うちかたな/後の脇差)を差すことができました。左官が打刀を差すということは、生命にかけて壁塗工事をするということを意味したと思われます。

江戸時代になると、「職人の世紀」といわれるだけに、沢山の職人風俗絵図が描かれ、その中に鏝を持って壁を塗る左官職が多く描かれています。「名古屋城障壁画」慶長17年(1612年)、「人倫訓蒙図彙」左官/元禄3年(1690年)、「江戸職人歌合」下、左官/文化5年(1808年)、「略画職人尽」左官/文政9年(1826年)などがそれらのものです。

これらの中に描かれている左官職人は、萎烏帽子も被らず、帯刀もしていません。手に持つ鏝の形は、どれも先の尖った鉄製の元首型で、現在の柳刃鏝に似ています。

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正徳3年(1713年)の「和漢三才図絵」には、「泥鏝は鉄製で、土壁を塗るのに大小数種類あり、荒壁・中塗・上塗(軒裏・天井など)等の使用目的に応じて使い分けられ、その形によって鶴首・柳刃等と呼ばれている」と書かれ、現在の柳刃鏝に似た元首の「柳刃」大小2丁と現在の鶴首鏝に似た「鶴首」一丁の鏝の絵が描かれています。

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文化元年(1804年)頃と思われる「道具字引図解」には、「大鏝」は中塗などに用いる鏝(大型の元首鏝)、「柳刃鏝」は小さい細工に用いると説明しています。

以上から理解できるように、仏教伝来によって寺院建設で土壁塗りが行われた奈良時代から江戸時代の終わり頃まで、左官が使用した鉄製の左官鏝はみな元首型でした。これらの鏝は、現在の本焼鏝のように堅く焼き入れされたものではなく、土壁や漆喰が塗り易い地金鏝のような柔らかな材質で作られていたのではないかと推測されます。

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ここに一つ謎が残ります。寺院の土壁塗りには、当時木鏝が使われたと思われるにも係わらず、その後木鏝については文献にも、絵図にも、史料として明治になるまで(※3参照)なにも残されていないことです。木鏝は左官鏝として重要ではなかったのか、或いはその後使われなくなってしまったからなのか、よくわかりません。(※4参照) ただ一つ言えることは、土壁は木鏝では塗りにくいということです。

※3
明治時代の中ごろには、再び中首型の木鏝で登場しますが、4代続く京都の左官一家に伝わる大変数多くある鏝の中で、なぜか木鏝は長さ210mmぐらいと思われるものが一丁あるだけです。(雑誌「土と左官の力」 P87)


木鏝が盛んに使われるようになったのは、モルタル壁のビル建設ラッシュが始まった高度成長期からです。270mm~330mmの大きさがよく使われるようになりました。

※4
故山田教授は著書「壁」の中で、「仕上げの平滑さや鏝ばなれのよさを求める上塗の場合はともかく、中塗までの工程には高価で使いにくい元首型鉄鏝よりも、むしろ木鏝の方が普通に使われていたと推定しておきたい」と述べています。




(三)中首型鏝の出現
今までの通説によると、日本において明治時代の中頃まで鉄製の左官鏝は、すべて先の尖った元首型であったとされています。その理由として、(1)中首鏝の現物や史料がみつからないこと、(2)木柄を付ける首部を鏝台の尻部に付けるのではなく、中ほどに穴を明けてカシメ付ける技術は明治中期以降である(※5参照)ことがあげられています。

※5
今まで明治23年に刀鍛冶から鏝鍛冶になった中目黒住の初代兼定の加藤平蔵氏が、「笹の葉」という中首鏝を作ったのが、中首鏝の起源とされてきました。しかし、この鏝の現物は見つかっていません。


しかし、西山マルセーロ氏の最近の調査・研究によって、この中首鏝の起源が覆りました。西山氏は以下のように指摘します。
(1) 「江戸職人歌合」に描かれている元首鏝は、鏝台の尻部でなく、内側に入って首部が付けられているので、首の接合にカシメの技術が用いられている。
(2) 江戸期の京都の鏝鍛冶として知られている雁金(かりがね)銘入りの中首型鏝や江戸期の特徴である八角断面の柄の付いた中首型鏝が発見された。
(3) 初代兼定は加藤亦造氏で明治末期の創業であった。

そして、薄手の焼き入れの中首型鏝の製造経緯は不明であるが、少なくとも江戸末期には鉄製の中首型鏝が存在していた可能性が高いと主張します。

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中首型鏝の出現以降、この型が鏝の主流となり、明治から昭和の初期にかけて、細やかな仕上げに合わせた鏝が数多く作られると共に、西洋建築の導入によってモルタルなどの新しい壁材や用途に合った鏝が求められるようになり、鏝の種類が次第に増えていきました。(※6参照)

※6
壁塗りは土壁が左官工事の主流であったため、荒塗り・中塗りには地金鏝が主流の鏝でしたが、モルタル仕上げの壁が多くなり始めた昭和30年前後から、半焼鏝・油焼鏝が登場し、地金鏝は次第に使われなくなりました。


また、昭和30年代始め頃からは、角鏝が登場しました。面引や切付には、いままで別注で作るか、あるいは形トタンを形折で面の形に作って使っていましたが、昭和30年代の始め頃から型で容易に作ることができるようになり、面引鏝・切付鏝として市場に多く出回るようになりました。
そして戦後の高度成長期に入ると、ビル建設などの野丁場の仕事が盛んになり、左官工事の効率化のために鏝の長さと幅が大型化していきます。長さ330mm・360mmの大きさの金属製の中首型鏝でビルのモルタル壁を塗る人達も現れました。鏝の材質もステンレス・アルミ・プラスチックなどの新素材を使ったものも登場し、鏝の種類も一気に増えることになりました。




(四)貼り付け鏝の出現
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1980年代の初め頃、兵庫県三木市の鏝製造メーカーから「鏝の革命」というべき画期的な角鏝が世に出されました。(※7参照) 今まで角鏝は中央に付けた細く丸い金属棒の背金と鏝台とをカシメ付けたものでしたが、接着剤の品質向上と接着方法の技術革新によって、0.3mmまたは0.5mm厚さの極めて薄い鋼板やステンレス板を鏝台にして、それに薄くてしなりのある幅広い背金を貼り付けて作った角鏝の出現です。

※7
1982年(昭和57年)宮崎鏝製作所/昭和40年創業が、背金式の貼り付け型角鏝をアローライン鏝と名付けて、初めて売り出されました。1988年には社名が(株)アローライン工業と変更されました。


以後貼り付け型鏝は、多くの鏝製作所からスパルタ鏝、ペンギン鏝、スーパーハイソフト鏝などと名付けられて売り出されています。

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この鏝が出現する2,3年前ぐらいから、プラスチック板を鏝台にした貼り付け型鏝が作られていましたので、それが基礎技術となり、さらに技術改良を加え、金属製の貼り付け鏝として作ることが可能になったのです。
これ以後、多くの種類の貼り付け型鏝が、新しい壁材や従来の壁材にも使い易いこともあって、作られました。現在では、出隅・入隅鏝にも貼り付け型鏝が作られ、鏝の主流になりつつあります。

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むすびに
奈良時代から現在まで、日本における左官鏝の歴史を概観してきましたが、むすびに左官鏝の将来について述べてみましょう。
建築に関して多くの部分が職人の手から離れ、効率性や経済性を求めて機械化されて来ましたが、壁を塗る左官の部分は最後まで残された手作業の職人領域と言われています。壁塗りは機械化がむずかしく、そのため効率性・経済性を求めて、新工法・新素材が開発されて壁塗り工事を除外した新しい壁作りがおこなわれ、バブル期以降左官の領域が縮小されてきました。
しかし近年、健康に良いエコ壁として、また芸術性の高いデザイン壁としてなど、壁塗り工事が新しい分野で復活して来ています。左官鏝も、それに合わせて新しい種類が作られてきています。
左官鏝の製造は、兵庫県三木市が全国の90%以上占めています。その三木市の鏝鍛冶は高齢化と後継者難などもあって、次々にやめていく現状です。また、鍛造鏝は高価になるばかりで、手に入れ難くなりました。
しかし、安価な貼り付け型鏝の出現によって、従来や新しい壁材にもこの鏝で十分に対応できますし、手に入れ易い利点もあります。今後、貼り付け型鏝がさらに改良されて種類を増やし、鏝の主流の座を占めていくことと思われます。

平成21年3月吉日
(有)スズキ金物店
代表取締役 鈴木 俊昭




※編集室より
左官的塾の本棚のコーナーで「日本の大工道具職人」(鈴木俊昭著 財界研究所 2011出版)』をご紹介していますのでぜひご覧ください。


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