鈴木俊昭連載2

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連載第2回 左官鏝の柄の形状について

(有)スズキ金物店 代表取締役 鈴木 俊昭                                   

資料: (有)スズキ金物店 HP より



suzuki3_01.jpg


はじめに
左官鏝の柄の形状については、丸柄が関東型で、角柄が関西型であると、いままで一般的に左官関係の人達の間で言われてきました。

しかし、左官鏝の柄についていろいろと詳しく調べてみますと、丸柄・角柄にはそれぞれ歴史的な背景があり、また鏝の使用方法から来る相違や丸柄・角柄の形状についてもいくつかの型があり、単純に丸柄が関東型、角柄が関西型であると規定できない事実があります。さらに、柄の材質についても、いろいろと変遷があります。

そこで、関西鏝全般について大変に詳しい関 忠行氏(三木の金物卸問屋/株式会社 関忠 会長)や左官職の人達からお聞きしたお話、月刊「さかん」2008年9月号・10月号、鈴木忠五郎著「誰にもわかる左官工学」(1965年)、西山マルローセ著「左官鏝形状の歴史的変遷と形状計測の統計的分析による考察」竹中大工道具館研究紀要18号(2007年)を参考にして、あまり詳しく知られていない「左官鏝の柄」について述べてみましょう。

但し、レンガ鏝・ブロック鏝の柄については除きます。




(一) 江戸幕末期以前の鏝柄の形状について
歴史的に見てみますと、中国西域出土の木鏝(台から取手まで一木で作ってある)が角柄で、奈良時代に百済から渡来した壁塗りの工人も、おそらくこの型の木鏝を持ち込んで使い、それとともに日本でも台から取手まで一木で角柄の木鏝が作られたものと思われます。角柄であったのは、一木から作り出す製作上の理由からであったと思われます。その後、この木鏝については史料としてなにも記述がなく、なぜか歴史から消えてしまいます。(※1参照)

鉄製の鏝も、渡来した工人によって同時に持ち込まれたかと思いますが、史料が残されていないために、柄の形状がどのようであったのかは分かりません。日本で出土した奈良時代の鉄製の元首鏝と思われる鏝も、柄が朽ちて失っていて、どのような形状の柄が付けられていたのかは分かりません。

これ以後も、平安時代の寛平4年(892年)新撰字鏡に「鏝」の文字が現れますが、史料が発見されていないために分かりません。

室町時代になると、「七十一番職人歌合」上壁塗りで、真ん丸の丸柄の元首鏝を持った左官が描かれている絵図が現れます。さらに、江戸時代の職人風俗絵図や左官職の鏝を紹介する文献では(※2参照)、元首鏝の柄はすべて真ん丸の丸柄に描かれていて、角柄は一つもありません。

※1・2 詳しくは「左官鏝の歴史について」を参照ください。




(二) 角柄の左官鏝の出現
江戸時代後期になると、京都に中首で作られた左官鏝が出現します。それとともに京都において、日本で始めて角柄が付けられた中首鏝が誕生します。幕末の京都の鏝鍛冶であった雁金(かりがね)銘の角柄中首鏝や無名の角柄中首鏝が発見されています。これらの角柄の中首鏝は、どれも鏝が小さく、鏝首(鏝台と柄の間隔)が狭いと言う特徴があります。

この角柄の誕生には、京壁塗りと中首鏝と鏝柄の三つが密接に関係しているように推察します。別の表現をすれば、京壁塗りが盛んな京都で中首鏝が出現したからこそ角柄が誕生したと言えましょう。

その理由は、以下のように述べることができます。

(1)京壁を塗る時に、元首鏝では力を入れ難くて使いづらく、中首鏝の方が力を入れ易い利点がある。

(2)江戸時代の後半に京都で中首鏝が誕生したと推察される。

(3)京壁を塗るときには、丸柄よりも角柄の方が使いやすい。
(※3参照)

(4)鏝の柄は鏝鍛冶が付けるのではなく、直接鏝鍛冶から買った左官が自分で付けるか、あるいは大工・建具屋などに頼んで付けてもらっていたので、使い易いようにどのような形状にもすることができた。

※3 京都の名人左官職である奥田信雄氏によると、京壁を塗るときの丸柄と角柄の違いや角柄への移行を、次のように述べています。(月刊「さかん」2008年10月号/座談会「鏝は語る 江戸から現代まで」)

「丸柄というのは鷲づかみです。(注:参考までに、角柄は親指押さえで鏝を持ちます)その力を溜めるとか、ひじとか肩に力を溜める必要がなければ、丸い方が力が入りやすくて上出来やったと思う。そうっと持って力を溜めるようになってきてから、まず八角になってきます。」

「高度な仕事をしようとして、力を抜いてバランスよう鏝を握ろうとすると、だんだん角になっていったと思う。」

「大型の鏝は丸柄が多く、角柄はめずらしい。」

以上のような理由から、京都において初めて角柄の鏝が誕生したと推察します。そして、京都の左官が地方に出掛けて仕事をしたり、また京都で修業を終えた左官が地元に戻るなどによって、角柄の鏝が広まったと思います。(※4参照)

※4 東京の八王子市近辺でも、東京オリンピック前後まで、普通に角柄の左官鏝や羽子板型の鏝板(壁に塗る材料を乗せる板)が使われていたと古老の左官職の人は話しています。





(三) 関西型の鏝の柄
関西型の鏝の柄の形状として、京都型と大阪型があることが、左官業界では一般的に知られています。その柄の断面図を表示すると、下図の通りです。

suzuki3_02.jpg京都型suzuki3_03.jpg 大阪型

京都における角柄については、すでに語りましたので、大阪型の角柄にいついて述べてみましょう。昭和時代の始め頃から終わり頃のある時期まで、大阪に (瓢箪ト)と銘を打って左官鏝を作る鏝鍛冶がいました。ほとんどの場合、鏝鍛冶から鏝を買い取った問屋が鏝の柄を付けるのですが、大阪の「瓢箪ト」の鏝鍛冶は、自分で角柄を作って鏝に自ら付けていました。

この柄の形状が角柄でも、上記のように京都型の角柄とはいくらか違っていたのです。そのため、この形状の角柄を大阪型と呼ぶようになったのです。

現在では、角柄というと京都型をいい、大阪型は消えました。三木で作られた鏝に角柄を付けるときは、すべて京都型です。

実は、あまりよく知られていないことですが、関西型鏝柄にはもう一つあります。それは卵型の丸柄で、私はあえて「三木型」鏝柄とここで呼びます。柄の断面図は下図の通りです。


suzuki3_04.jpg三木型
この卵型の柄は、多くの関係者が丸柄ということで、関東型あるいは東京型であると間違って理解していますが、三木の鏝柄の関係者が握りやすい柄として考案したもので、その意味から純然たる関西型です。この柄は明治時代の後半から、三木で鏝柄として使用されているとのことです。

昭和30年前後から、三木の鏝が近畿・中部・中国・九州地方などによく出回るようになり(※5参照)、また東京オリンピック(昭和39年)開催のために東京の都市再開発が行われた頃、今まで西勘鏝が独占していた東京に、三木の鏝が関西鏝として大量に出回るようになり(※6参照)、さらに関東全域、東北地方、北海道へと市場を広げ、全国的に卵型の鏝柄が広がりました。

※5 三木の左官鏝を扱う有力な金物問屋であった(株)横光金物の三代目社長横山豪樹氏から以前に、「三木でもよく知られていないことですが、横光金物の創業者で、初代社長であった祖父の横山光之助が、昭和20年代始めに東京の西勘から鏝を一揃い買い求めて来て、それらの鏝を模して三木の鍛冶屋に作らせました。それによって三木の左官鏝製造が盛んになり、鏝の一大産地になった理由の一つです。」と聞いたことがあります。

※6 当時(株)横光金物の番頭であった関 忠行氏が、販路拡大のために、西勘鏝が独占していた東京に出掛け、三木の鏝をはじめて東京に売り込んで市場を開拓し、今日の東京における三木鏝の市場の基礎を築きました。

現在、三木の鏝は、京都や一部の地方に送る場合は京都型角柄で、その他は要望がない限り、中首鏝は卵型丸柄で、元首鏝は真ん丸の丸柄で送っています。最近では、柄を作る経費の点から、中首鏝の柄ははっきりした卵型からより丸みを帯びた卵型になって来ています





(四) 関東型の鏝の柄
関東型または東京型と呼ばれている鏝の柄は、真ん丸の丸柄です。昭和初期に製作販売された西勘総本店(江戸末期の安政元年金物屋を開業・明治22年より左官鏝の製作販売)のマークが付いた中首鏝の柄の形状は真ん丸でヒノキ材を使い、尻部が頭部より太くなっています。その形態と断面は下図の通りです。

suzuki3_05.jpg正面suzuki3_06.jpg

この形状が関東型または東京型で、主に東京の西勘鏝に付いていた柄です。江戸で使われてきた塗り鏝である元首鏝の真ん丸型の丸柄を、引き続き中首鏝にも付けたものと思われます。西勘は自分のところで作った真ん丸の丸柄を、すべて自分のところで鏝に付けて販売していました。

いままで西勘の鏝にはすべて真ん丸の鏝柄が付いていましたが、しかし近年では、西勘の中首鏝には柄の形状が真ん丸型からいくらか卵型に変わってきています。





(五) 鏝柄の材質
鏝の柄の材質については、江戸幕末以前の左官鏝はまだ発見されていませんので、どのような材質の木で作られていたのか分かりません。奥田信雄氏によると、京都では「元首から中首になって行くとき、古いものは丸柄、材質は杉」であったと指摘しますので、杉材であったかも知れません。

さらに、奥田氏所蔵の江戸末期から明治の末まで鏝絵職人が使った中首や元首鏝の柄には、黒檀・紫檀・黒柿・漆塗りの柄とという堅木が付いていますが、これは一般的なものではなく、鏝絵職人の趣味趣向から付けたものと思います。

いつの頃からかまだはっきりと分かりませんが、多分京都では角柄に変わっていく頃から、鏝の柄がヒノキで作られるようになっていったのではないかと推察します。ヒノキは水に強く、感触が柔らかい上に軽く、手の形によくなじむ材質であったからです。この頃は左官が鏝鍛冶に自ら注文し、柄は左官が自分で付けたり、大工・建具屋などに頼んで付けてもらっていて、柄が付いた左官鏝が市場に出回るのは、関西地方ではずっと後のことです。

江戸ではどのような材質の木が柄に使われていたのか、史料が残されていないために分かりませんが、江戸末期の安政元年に金物屋を開業した西勘が、明治22年左官鏝の製造販売を始めた頃までには、東京でも同様にヒノキが鏝の柄に使われたのではないかと推察します。

その後、全国の鏝生産の90%以上を占める三木では、鏝の柄にはヒノキが、名古屋にある建具工場などからでる廃材を利用して使われ続けてきました。しかし、今から10年ぐらい前に、ヒノキが費用面から鏝柄として使われなくなりました。20年ぐらい前から、ヒノキと併用して使用されてきた輸入材のアメリカヒノキ(米桧)が、その後鏝柄に主として使われて来ましたが、現在は、ヒノキと同じような性質を持つ輸入材のソ連ヒバが、鏝柄として使われています。




むすびに
鏝の柄について調べてみたいと思った動機は、今から40数年前に、父が経営していた店を20代始めの私が手伝い始めたとき、「東京鏝は丸柄であるのに、なぜ関西鏝は角柄なのか」と単純な疑問を思ったことからでした。

当時、鏝の卸問屋の人や鏝を買いにくる左官職の人達に聞いたりもしましたが、よく分からず、またこれについての参考研究書も鈴木忠五郎氏の「誰にもわかる左官工学」のみで、その中では「恐らく習慣がかくさせたのであろう」と述べられるだけで、よく理解できませんでした。それ以来、今日まで来ました。

しかしここに来て、「左官呼称の変遷」や「左官鏝の歴史」について、後継者の長男や左官関係の人達などによく知ってもらうために、当店のホームページに載せる目的でいろいろと調べていく過程で、その後に研究された文献や左官関係の雑誌などを読み、左官鏝の柄についても歴史的に詳しく分かり、また三木の左官鏝の有力卸問屋(株)関忠会長の関 忠行氏から、左官鏝の一大産地三木における鏝柄の状況などについて、詳しくお聞きすることができました。

それによって、私なりに京都において、なぜ角柄が誕生したのかを解明でき、それを「左官鏝の柄について」と題して書き上げることができました。
この原稿を書き上げるのに取材にご協力して戴いた皆様、また参考にさせて戴いた文献の著者の皆様・左官関係の雑誌の中で貴重な話を語られて、また論文・紹介などを記述されていた皆様に、深く感謝申し上げます。



平成21年7月吉日
(有)スズキ金物店
代表取締役 鈴木 俊昭




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