群馬県の左官職人・石川光弘 寒壁(かんかべ)の話
聞き手:蟻谷佐平 (編集室)
2008/01記 (2012/05追記・修正)
群馬県に住む知人の左官職人から「養蚕農家の荒壁は寒い時期を選んで塗るといい」と言われて何故なのかと思わず質問した。
いわく「養蚕農家にとってお子様(蚕)は何より一番大切。荒壁は雑菌の繁殖時期を避けた冬場がいい。塗った日は建物の周りにムシロを養生シートのように張る。その内側で一晩中、薪を燃やして煙がめぐるようにする。こうすればまず凍らない。が、危ないから火のそばで寒さしのぎに酒飲みながら管理した。また桑の根っこや生木のような燃え難いのは壁が燻されて虫がつかず好ましい」と。
明治維新以降の国力を蓄えた輸出品は生糸産業であった。なかでも群馬県は養蚕業の中心地だった。生糸の増産は国策であり養蚕農家も規模が大きくなり建物も大型化していった。
繭作りが始まるとこの大きな農家のすべてが蚕の飼育室に使われた。人は蚕のワラ布団の隙間に寝て親身の世話をした。大棟にいくつも煙出しが付いた養蚕農家の建物は今でもいくらか残り、かつての隆盛のころの構えがある。
土は数日前から水を張り、荒付けする当日に藁スサを入れて捏ねる。当日に藁スサを?と問うと、藁スサの発酵菌~腐敗菌の繁殖は蚕にダメージを与えるからと、蚕の飼育室ゆえの理由であった。そして壁土をドカ付けするから乾きは悪い。しかも真冬であればなおさら作業状況はキツイし身体も痛む。がしかし一晩中火と煙をあてた壁は、やがて時を経て日干しレンガのように硬くなる。かつて実際に寒壁のやってある古壁を剥いで調べると、70年前の壁の小舞竹は青みを残し、藁縄も壁土の藁スサも塗った当時のままに現れてくる。
この頃は地産地消という言葉がよく使われる。先の話を聞くと左官にもその土地の風土に合わせて適う古くからの確かな技術がその土地に守られてきたとつくづく思える。そしてその技術を今に宿し未来に向けて伝える職人はまさに地産知将(!)と言えるかも知れない。ねっ!!
余話になるけれど、この知人のセガレは自衛隊に入り国を守っている。いわく「お子様(蚕)が元気に育つくらいのめぐまれた風土にからっ風、だからウチのガキも元気の度が過ぎてゲンコツを貰って打たれ強い子になった」って、嬉しそうに赤ら顔をくずして話してくれた。そして急に真顔になって「群馬にはその土地ならではの技術がある。若い人にそれを伝えていきたい。オレも66歳になるんだぜ・・・」。もうすぐ冬場、甘楽郡甘楽町の現場にてセッセと竹小舞掻きながら来春の3月竣工の現場に備えている。
晩秋の夕陽に染まる柿の木の梢にポツンと残された熟柿に似て、彼もまたとばりにさしかかる残照に染まり美しい。
■追記
現在、石川さんは70歳になり現役を続けている。仕事と焼酎、自家製ボケ酒、クサキムシやの漢方由来の類いが健康を支えてくれるという、長年にわたる彼のよどみない弁に相づち打つしかない。先日の「大江戸左官祭り」会場には先輩左官職人と来てくれた。帰りに「元気もらった。俺も頑張らなきゃな、孫も産まれたし」って、寒壁の壁土(修復保存用の)1袋をお土産にくれた。