久住氏連載4

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磨き壁をめざして 第3回

淡路島の左官 久住 章



新しい磨き壁へのチャレンジ

39歳(1987年)。
4月、建築家・長谷川逸子氏による神奈川県藤沢市・湘南台文化センターの現場にて、「ストゥッコ・ルーチド・ア・ラ・ベネチアナ」(ベネチア様式のスタッコによる磨き壁)を模した大壁を仕上げた。

本来、この素材にはチョークの粉末、リノールオイル、膠(にかわ)、ブナセルローズ、顔料を使用する。この現場では、石灰、メトローズ、クツクリーム、ニス、顔料の素材で作り雰囲気を真似たが、それなりに新しい磨き壁の仕上げになった。


40歳(1988年)。
東京都巣鴨において篠塚ビル(建築家・梵寿鋼氏)の階段ホールを施工した。これは地下1階から続く4階までの壁・天井を彩色レリーフで施す仕上げだった。その中の1階に鉄製の消防用ドアがあり、鉄製ドア全面を土佐漆喰赤磨きでレリーフ状に仕上げた。これを施工したのは、大分県の左官・原田進氏である。

仕上げの最後の赤ノロに少量のオリーブ・オイルを入れ、塗り付け後、柳葉やきめぐり鏝にドライヤーの熱を当てながら押さえて艶を出す技法であった。この技法はイタリアの「マルモ・リーノ」の一種で、表面にアイロンを当てながら、艶を出す技法を真似たやり方であった。

榎本新吉氏の薫陶を受けた小沼充氏(代表的な仕事は東京都港区にある萬年山青松寺)が最近開発した新大津磨きは、レリーフでも三次曲線でも自由に磨き仕上げが可能になり、ドライヤー技法は必要としなくなった。余談になるが、巣鴨の篠塚ビルは2007年10月20日に解体された。


41歳(1989年)。
当時、西ドイツの南にリンブルクという中世に造られた城塞(じょうさい)都市に、1289年に建てられた木造土壁の民家群があり、このドイツで最も古い木造土壁の民家の修復方法を指導してほしいと要請があった(これについてはいずれ記すつもりである)。

同時期に、和歌山県白浜町・ホテル川久の仕事の依頼があった。この現場では、「ドイツ式石膏大理石磨き」を仕上げることが計画され、ドイツの石膏彫刻飾り職人のマイスター、バーナー・シュベンツナー氏に師事することになった。

彼は先述のライヘン・ツェラー氏とは、アウグスブルクにおいて兄弟弟子だった。習う現場はバンベルグという小さな町の丘の上の教会であった。この教会は「フィーア・ジェーン・ハイリゲン」(14人の聖人教会)といい、ドイツを代表するバロック様式の名品である。

この現場で3ヶ月間、「シュトゥック・マーモア」(石膏の大理石)を学ぶことになった。これは焼石膏(α石膏)で作る擬大理石であるが、自然界にはない文様や色、無限に継ぎ目のない大きさや形を可能にする技術で、昔から本物の大理石より高価といわれる技術であった。事実、1984年アウグスブルクで見た石膏の大理石のなかには、日本円にして1㎡=300万円(1マルク=100円換算)という途方もなく高価なものもあった。



42歳(1990年)。
かねてより約束してあった日本での仕事が、ホテル川久で実現することになり、イタリアのベローナのマエストロ、ザルディーニ・アンジェロ・レンツオ氏とその息子、職人が来日した。

これから3ヶ月間、ホテル川久においてイタリア式漆喰磨きの本物の施工である。彼らが仕上げに使用する道具は、主に金ベラ(15cm角、厚さ0.3㎜の平板)であり、我々から見ると力学的に使いづらいと思った。そこで、ペンギン鏝0.3㎜厚を薦めると、これは良いと気に入り大量に買い込んでイタリアに持って帰った。

このホテル川久では、和式レストランに淡路島の青浅黄の磨き大津を予定していたが、バブルがはじけて実現しなかった。


43歳(1991年)。
ホテル川久の工事中にドイツの石膏彫刻飾り職人のマイスター、バーナー・シュベンツナー氏が来日し、私の仕事を案内した。その際、私の淡路島のアトリエにおいて、石膏によるフリーハンドの彫刻の講習会を開き30名が参加した。この時の講師料は2日間で100万円であった。



さまざまな仕上げを施工

46歳(1994年)。
佐世保海洋歴史博物館の磨き壁の施工中、ほかの左官工事を行なっていた65歳くらいの職人から面白い話を聞いた。

「この辺りは風雨が強く、黒漆喰の色が褪めやすいので、黒漆喰は3日間掛けて仕上げる。初日は塗り付け、最後に手ごすりするのだが、翌日、表面に浮いた露をふき取り、砥の粉を打って手のひらで綺麗に散らして再度鏝で押さえる。そして再度手ごすりをするが、翌々日も同じ動作を繰り返して3日間掛けて仕上げる」。また、「ところが最近、この工程に適した砥の粉がなくなり仕事ができないので、良い砥の粉があれば譲ってほしい」というのである。

私も今まで色々と試してみたが、砥の粉であれば何でも良いというものではないようだ。その後、佐世保で聞いた話については実験していない。


50歳(1998年)。
夏、フランスのグルノーブル大学にて土壁の講義を行なうことになった。その時、アフリカのモロッコの漆喰磨き、「タドラック」(フランス語*7)のサンプルを見た。土の表面に3㎜ほどの厚さで塗られており、わずかなデコボコがあるが日本の白漆喰磨き同様の艶があった。それはモロッコの職人が仕上げたものであった。

表面に石鹸を塗り、なめらかに砥いだつるつるの特別な石(4㎝角くらい)で、こすり廻しながら艶を出したものである。そしてこの技術はローマ時代までさかのぼるという。

日本と同様、土の表面に仕上げる技法が気になっていたが、最近、東京の左官職人がモロッコから輸入して仕上げている。また淡路島の植田氏もドイツ製の材料で施工している。さらに京都に住む息子の久住誠もモロッコ製の材料でテストを行い、同時に日本製水硬性石灰の可能性を探っている。


52歳(2000年)。
東京青山に「45RPM」というジーンズ・ショップの本店が、日本の伝統的な工法で建てられた。そのトイレを磨き大津で仕上げることになった。色は無地で仕上がったものの艶は満足できるものではなかった。技法そのものよりも粘土に対する知識が不十分であることを自覚させられた。


54歳(2002年)。
東京都三鷹市で老人ホームの壁に大津磨きを施工した。これは全部で20㎡を60枚に分けた小さな壁だった。

職人は私の息子とその見習い弟子、そこに東京都練馬の小沼充氏、愛知県名古屋の坂井直樹氏(東京都東大和市の勝又久治氏の弟子。後年、愛知万博「サツキとメイの家」の左官を仕切ることになる)が参加した。

この時は下地のプラスターボードに、下塗りとしてBドライ(吉野石膏製)を5㎜厚に塗り、翌日、のり土(5号珪砂入り)を1回塗り中塗りとした。しかし、水引きが早いことに加え薄塗りのため、「灰土」にメトローズを入れ白雪苆仕立てにした。そして「引き土」(仕上げ材)にもメトローズを入れたほか、紙苆を溶けやすくして加え、仕上げた。まったく工期のないバタバタの仕上げにもかかわらず、「45RPM」の時よりはマシに仕上がった。

この引き土にメトローズを入れる工夫と「カルチェ・ラサーター」の技法(イタリア式磨き壁の一種)の両方のいいところを汲んで、後に小沼氏の新大津磨きに継承されたと考えるが、どうだろうか。この新大津磨きは画期的かつ斬新であり、「あっと驚く大津磨き」・・・。私の努力など吹っ飛んでしまうぐらいの快挙であった。彼の多大な努力に花丸付き5重丸をあげたい。

(次回へつづく)

*編集室注
7タドラック  モロッコの磨き壁。植田俊彦氏のホームページに詳しく紹介されている。

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