久住氏連載3

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磨き壁をめざして 第2回

淡路島の左官 久住 章


感動の土佐漆喰

35歳(1983年)。
高知県安芸郡安田町の土佐漆喰名人・久保田騎志夫氏を訪ねた。その久保田氏の現場を見てとても驚いた。1軒の住宅に多量の漆喰工事がある。その上、細部の多さ、緻密さ、正確さ、すべて磨かれて完全防水を目指した技法の違い。想像を超えた見事さに圧倒された感動は今でも蘇える。

余談になるが、「左官教室」編集長の小林澄夫氏と二人で、久保田邸を探してウロウロしているところを、久保田氏は見ていたらしい。今でもそうだが、二人とも安物のヨレヨレの服を着て怪しげな風体に見えたらしい。久保田氏と酒を飲むと、その時の二人の話が、今でも酒の肴に出る。

その後、建築家・石山修武氏と出会い、静岡県伊豆半島松崎の長八記念館の建築に土佐漆喰を提案した。最初はすべて土佐漆喰の計画であったが、途中で変更になったらしい。石山氏の私塾である「高山建築学校」で長八記念館の図面を見て、鉄骨造の構造は左官工事に向いていないとケチをつけたので、私は仕事からはずされたのかも知れない。

22歳の時、神戸元町の易者から、「あなたは口が災いするから、慎むように」といわれたことがある。今でも、あちこちで口が災いしているが・・・。


ヨーロッパの磨きとの出合い

36歳(1984年)。
7月、ドイツのアーヘン工科大学から塗り壁の講師として迎えられた。その時、初めて西洋型漆喰、石灰モルタルを体験した。左官の技術というのは、原理的には世界中同じようなものである。

その西洋型漆喰「クリーム型の消石灰」に触れて砂の混入をしてみたが、どの程度でヒビが出るのか、あるいは接着するかはすぐに理解できた。早速始めたクリーム型消石灰による磨き壁も、2~3回の実験で綺麗に仕上げることができたので、ゼミの学生達も驚いていた。この磨きは後年、イタリアの古典的な「マルモ・リーノ」(ローマ時代の漆喰磨き)と呼ぶ磨き壁に近いことを知った。


37歳(1985年)。
ドイツのアーヘン工科大学教授のマンフレッド・シュパイデル氏と供に、イタリアのベローナにある建築家カルロ・スカルパ氏の作品を見学した。

イタリアの伝統的な漆喰磨きは、日本とはまるで別世界であった。特に、「カルチェ・ラサーター」(別名:髭剃り跡)(*5)は、磨かれた壁の表面に砂粒が飛び出ている。伊賀上野の「鉄壁」を想い出したが、それとはまるで様相が違った。

もうひとつの「ストゥッコ・ルーチド・ア・ラ・ベネチアナ」(*6)は、淡い色の濃淡のパターンが幾重にも重なる不思議な磨き壁であった。この技術を何とか知りたいと思った。そこでスカルパ氏の弟子でベネチア大学教授のアリゴ・ルーディー氏の紹介により、イタリアを代表する塗り壁職人エマニエル・ディー・ルイジー氏の住むベネチアを訪ね、磨き壁について質問したが教えてもらえなかった。


黒磨きへのヒント

37歳(1985年)。
10月、東京都東大和市の向台老人ホーム(建築家・梵寿鋼氏)にて、磨き壁を仕上げることになった。「若い職人が漆喰磨きをやるらしい」との話を聞きつけて、文京区・榎本新吉氏、新座市・加藤信吾氏、小平市・金井洋平氏(東大和市・勝又久治氏の親方)の3人の左官がやって来た。そして、加藤氏から持参の砥の粉を薦められた。

私はそれまで漆喰黒磨きに、砥の粉を使うことなど知らなかった。キラ粉(雲母の粉)とくらべて完全に無地になり、なおかつ鏝のすべりが良くなり、綺麗に艶が出た。この時の黒磨きはレリーフ状の小さなものである。


再びドイツ、イタリアへ

38歳(1986年)。
7月、3回目のアーヘン大学夏期セミナーに大分県日田の左官・原田進氏も同行した。セミナー終了後、彼と二人でヨーロッパ旅行に出かけた。

旅の途中、イタリアのベローナに立ち寄った。前年、ベネチアの名人エマニエル・ディー・ルイジー氏から習えなかったため、彼の一番弟子ザルディーニ・アンジェロ・レンツオ氏をイタリアの建築家マルコ・カリアリ氏から紹介してもらった。カリアリ氏は建築家カルロ・スカルパ氏の現場担当者であった。

我々二人はザルディーニ氏の仕上げたカルテル・ベッキオ(城の博物館)を見学し、そこで「マルモ・リーノ」を見つけた。しかしそれはさほど綺麗に仕上がっていなかった。

我々はレンツオ氏の現場、サン・フランチェスカ教会(ジュリエットの墓がある教会)を訪れ、話を聞くことにした。そして2時間後、レンツオ氏はアトリエで実演してくれることになった。先ほどの「マルモ・リーノ」の小さなサンプルを、我々が先に日本式の技で作ることになり、短時間で綺麗に艶が出たのでサルディーニ氏はちょっと驚いていた。

その後、レンツオ氏から、「カルチェ・ラサーター」「ストゥッコ・ルーチド・ア・ラ・ベネチアナ」というイタリア式の磨き壁を教わった。この時、カステル・ベッキオに勤務するイタリア人女性に通訳してもらえた。私は次の年も、ベローナに習いに行くことになった。

旅の帰りに再度ドイツに戻り、南ドイツの高台にある小さな村、オーブンドルフの教会の修復現場で、修復工事を行っている石膏彫刻飾り職人のマイスター、ライヘン・ツェラー氏を訪ねた。

余談になるが、石膏彫刻の飾り職人のことを「シュトゥック・トアー」(ドイツ語)というが、これは英語のデコレーターにあたり、現地では「シュトゥッカトヤ」と呼んでいる。「シュトゥッカトヤ」は石膏彫刻飾り職人の職業名であり、左官の職業とは異なる。技能五輪大会に出場するヨーロッパの職人は、この石膏飾り職人達である。ちなみに「シュトゥック」は石膏・漆喰などの塗壁材を示す。

さて、同行の原田氏はこのマイスターのもとで、2ヶ月間修業することになった。さらに次の年、同じ現場で山梨県の左官・渡辺真佐志氏、神奈川県の左官・片山茂氏の2名が修業することになった。私自身は1984~1985年にこのツェラー氏に習った。当時、ツェラー氏は60歳、現在は80歳を超えているだろう。


現場で仕上げと技法をオープンに

38歳(1986年)。
10月、象設計集団の仕事で、千葉県船橋市・徳田邸(住宅80坪)の内装すべてを土佐漆喰で仕上げることになった。しかし、高知県の左官・久保田騎志夫氏の本物には到底敵わない。そこで、それまでにない新しい土佐漆喰磨きや仕上げのテクスチャーを、多数実験することになった。

いちばん特徴的な磨き仕上げの工夫は、土佐漆喰の中塗り材に植物油を混入して塗り、乾燥後、上塗りノロにも1割ほどの植物油を混入した材を作り、ゴム鏝で薄くしごくように塗る。後日、3~4寸の本焼き鏝で表面を圧縮するように押さえ込む。そうすると中塗りの形状に関係なく簡単に艶が出るし、大きな面積も施工可能である。中塗り材に植物油を混入する工夫で、圧縮率は上がり艶出しが容易になる。

その他の仕上げに関しても(その工夫も含め)「左官教室」を通じて公開したので、土佐漆喰の豊かな仕上げの可能性が次第に全国に知られることになった。また、長八記念館の完成もこの時期であったと思う。

かねてより、「左官教室」誌上を通じて小林澄夫編集長、文京区・榎本新吉氏、両氏の呼びかけがあり、それに応じて、「水土クラフト・ユニオン」の立ち上げに参画した。特徴的な左官仕上げのある現場をオープンにして、若い職人の技術研鑽の場にしてきた。

この徳田邸でも新しい土佐漆喰の仕上げや、磨きの技法について工夫を重ねながら公開してきた。そして同時に、榎本氏の指導によって「磨き大津の講習会」も行なわれた。

「水土クラフト・ユニオン」の活動は、その後も各地での現場をオープンにして、新しい左官の未来を予感させる幕開けとなった。磨き壁は、我々左官職人にとって奥技として求めるだけでなく、これを広く社会に提案する左官技術として、この会に参加した建築家や建築ジャーナリストにも理解された。

さらに榎本氏のその後の活躍もあり、ますます深い理解を得て今日に至っている。特筆すべきは、この10年間に、「榎本新吉私塾」(誰かが路地端教室と名付けた)と呼ぶべく、榎本氏の薫陶を受けた若い有望な職人が育ったことで、その活躍は目覚しいものがある。
(次回へつづく)



*編集室注
5カルチェ・ラサーター
イタリア式磨き壁の一種。別名:髭剃り跡、壁にポツポツ黒点が現れる。

6ストゥッコ
スタッコのイタリア表記。漆喰を示す。

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