久住氏連載2

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磨き壁をめざして 第1回

淡路島の左官 久住 章


はじめに

私が磨き壁をはじめたのは、淡路島志筑の農家田中邸の外壁を、白漆喰磨きで仕上げた時であった。それは6歳下の淡路島の左官・植田俊彦氏(当時22歳)が、私のところに弟子入りした現場でもあった。

彼は経験年数のわりには、すでにかなりの技術力を持っていた。磨き壁と同時にバロック様式の応接間内装の漆喰蛇腹、漆喰彫塑、漆喰型抜きなどの技術を短期間に吸収しており、逆に技術的な提案をしてくれて私はかなり助けられた。

この現場の漆喰は田川産業の「城かべ」を使用していた。この縁で材料を扱う淡路島一之宮にある近畿壁材の社長から、漆喰磨きの講師を依頼された。早速その年、茨城県土浦の建材店で、城かべを使用した漆喰磨きを見せることになった。その日、他のメーカーで講師をしていた東京の左官の親方と、技能大会で優勝した若い職人が来ていた。

その親方の話によると、埼玉県川越市牛ヶ谷に遠山記念館という初代日興證券の社長が昭和11年に建てた住宅があり、その便所の壁が赤の磨き大津でとても綺麗に仕上げられている。しかもその壁を仕上げた職人が、その親方の家にいる。さらにその壁を仕上げた鏝は洋銀(*1)で作られており、当時、鏝一丁50円(当時の左官職人の手間賃は1日1円~1円50銭)であると、興味深い話を聞いた。今、その職人と鏝はどうなっているのだろうか?


磨き大津との出合い

29歳(1977年)。
東京の鏝絵の名人・手塚忠四郎先生(*2)に弟子入りした。12月、先生に同行し、当時日本左官業組合連合会(日左連)会長の杉山三郎邸を訪れ、山崎一雄先生(*3)の仕上げた赤の磨き大津を見ることができた。

そして12月24日、土浦で聞いていた遠山記念館を訪れた。あいにく休館日であった。が、淡路島からわざわざ来たので何とかならないかと懇願すると、普段未公開の室も含めてすべてを見ることができた。もちろん便所の赤磨き大津や化粧室、そして茶室の火頭口(かとうぐち)(*4)の角計りも黒磨き大津で綺麗に仕上がっていた。あれから30年経った今、この壁はどうなっているのか、その表面が「フケ」ていないか心配である。

その年の暮れに淡路島に帰る途中、三重県津市に山崎先生の住まいを訪ねた。山崎先生は元気で、色々と話を伺うなか、「職人の体の動きは、日本舞踊のように動く」という言葉が印象的であった。また山崎一雄邸の玄関の左側には、先生が晩年、赤で仕上げた磨き大津があった。


30歳(1978年)。
淡路島の倉庫で色々な色土を使って磨き大津を試すが、経験不足であまりうまくいかなかった。


黒磨きへのチャレンジ

久住磨き壁1_1.jpg

31歳(1979年)。
淡路島洲本市の富田邸にて漆喰黒磨きを仕上げることになった。ところが白と黒はまったく別物である。近畿壁材を通じて各地の現場を見学し、また職人を訪ね歩いて色々と話を聞いたが納得できず、自分で一から立ち上げることになった(この時は、まだ新潟の水島親方にめぐり合えていなかった)。8ヶ月間、仕事を休んで実験を繰り返した。その結果、自慢できるぐらいの磨きを実現できたので、2軒続けて黒磨きを施工した。

しかし1年後、台風の雨に長時間さらされた黒磨き大津は、全面に白い粉が浮き上がっていた。そのために色々と手を尽くしたが、2軒とも塗り替えることになった(塗り替えに3ヶ月掛かった)。原因は墨の「けずり墨」にあった。その後、墨を「松煙」(しょうえん)に替えて塗り替えたが、けずり墨ほど綺麗にならなかった。とりあえず現場は納めたものの、無念さが残った。「力不足である」と自戒した。

その後、1995年の阪神淡路大震災で2軒とも壁にヒビが生じ、結局、新建材の黒仕上げに塗り替えることになり、バカらしい思いがした。


32歳(1980年)。
和歌山県田辺市の黒磨き講習会で、月刊誌「左官教室」の小林澄夫編集長に出会った。この時、同じ海苔を使っても煮方によって仕上がりに差が出ることを知った。ひとつのことを熟知するには、相当の経験が必要であると改めて思った。

この年、「左官教室」の記事で山形市内の唯法寺の漆喰工事を見つけ、車で往復5日間、2700kmを走り訪ねた。黒磨きのできる山形県寒河江市の左官・阿部氏に会い、黒磨きの「ノロ作り」について教えを授かった。「まず油煙を酒で溶き、3重にした木綿で包んで湯煎をする。その後、冷めてから石灰と海苔を混ぜ、大きなフキの葉で3重に包み、さらに木綿で包み、田の泥の中に3年ぐらい浸け置く」こと。が、その後その実験はしていない。

淡路島に帰った後、住宅の書院の櫛型窓や釣り壁の下端に、縞黒檀文様の漆喰磨きを7ヶ所ほど施工した。この際、植田俊彦氏も2ヶ所施工している。この時の墨は、「けずり墨」を水に浸し1年間腐らせた物を使用した。また施工は室内の雨の当たらない場所で、問題なく綺麗に仕上がった。

久住磨き壁1_2.jpg

年代は忘れたが、三重県伊賀上野で漆喰黒磨きの講師を務めた。現地に到着すると、地元の左官・多羅尾充男氏の案内により、住宅に施工された伊賀の「鉄壁」(てつかべ)を見学した。鉄壁は漆喰ではなく磨き大津の一種で、下塗りの灰土に砂を入れ、引き土(仕上げ材)を掛け、仕上げ後の艶のなかに砂の粒々が表面に現れる、南部鉄のような仕上げである。

この上塗り材は膠(にかわ)入りの「玉墨」(たまずみ。商品名:飛切)を墨として混入する。とても艶が出やすいが雨が当たると白くなるので、仕上げ後すぐに油を塗る。この時、ハッと気が付いた。31歳の時の富田邸の黒磨きも、油を塗れば良かったと悔やんだ。こんな簡単なことが!! しかしただの油ではない。伊賀の職人には、それぞれの秘密がある。
(次回へつづく)


*編集室注
1洋銀の鏝
 銅・ニッケル・亜鉛の合金。鉄錆を呼ぶ材料に錆がおりないので仕上げに使う鏝。

2手塚忠四郎氏
 漆喰彫刻の名人。かつての日左連本館の彫刻はじめ、伊豆長八美術館天井の「天女」はつとに有名である。東京都左官職組合連合会本館に菩薩像の作品がある。

3山崎一雄氏
 左官短期大学校主任講師。左官の伝統技法普及で全国に多大な功績を残した。東京都文京区の榎本新吉氏の終生の師であり、東京都板橋区の安楽寺観音堂には山崎氏作の観音様が安置されている。また東京芸大フレスコ科において漆喰の指導を担当。

4火頭口(かとうぐち)
 茶室の給仕口。

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