三木氏投稿1

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榎本新吉師匠との思い出

三木きよ子



榎本新吉師匠とは平成七年春に、千石の喫茶店パックで出会いました。顔を見た途端、『歳は幾つだ?』『何の仕事をしていた?』と聞かれ、「なんじゃい、この爺さんは!」とすこしイラついたことを覚えています。
私の年齢は、榎本さんのご長男と同じようで『駿馬は常に走っていなければいけない』と言われ、仕事はテキスタイルデザイン(服地に柄や色を考える)をやっていたと話すと『材料は沢山あるから何かやってみなさい』と。何かをやれと言われても、何をしていいのか分からず微笑みながら軽く拒否をしていました。当時、榎本さんの自宅前の路上工房には大勢の人が毎日のように訪れていて“土”を使いながら楽しそうに作品つくりをしていました。その様子を見ていて私も何か作ってみたいと思うようになっていました。


そんな時、榎本さんから知多半島の桃色の土を見せてもらいました。桃色が大好きな色ではないけれど、この知多の土を見たときに鳥肌が立つような感覚を覚え、この土を使って何か作りたいと思ったのが私の土絵作りの始まりでした。
土絵を始めた頃、榎本さんから二つの言葉を聞きました。

一つ、欲張ってはいけない。
二つ、借金してはいけない。

借金してはいけないと言いながら、借金の仕方を教えられました(笑)。『いいかい、五十万借りたい時は五十万貸して!と言っても駄目だよ。百万貸してと言うんだよ。相手は百万は無理でも半分の五十万なら用意してくれるんだよ。最初から五十万って言ったら半分の三十万ぐらいしか貸してはくれない。そんなもんだよ。』ありがたい知恵ですが未だに教えを守り、二つめは実践に至っておりません。今の私があるのは、この二つの教訓の御蔭と感謝しています。
私は元々不器用な人間です。でも榎本さんは『器用にチャッチャとするより、何度も失敗をしながら覚えていく不器用な人の方がいいんだよ』とよく慰めてくれました。そんな私ですが、ある時榎本さんのご長男・雅一先生の紹介で荒川区の小学校の図工部での研究授業に呼ばれました。泥だんご制作です。
同時に石灰のフッ化もやることになり、榎本さんにお頼みして一夜漬けで教えて頂きました。私の不安を案じてか、当日は研究授業の講師の師匠として一番後ろの席で見守っていてくださいました。案の定、石灰のフッ化の説明に窮した私は師匠に助けを求めました。『そうかい』とばかりに、石灰のフッ化を榎本流で話され、図工部の先生方の拍手喝采を受けました。この時撮った写真は、私の大切なお守りの一枚になりました。


『土絵が本業で、泥だんごはアルバイト』・・・日頃から榎本さんに言われ続けていました。本業の土絵は自由にデッサンして制作を続けていますが、今は本業よりアルバイトの方に声が掛かることが多いのですが・・・。今年の五月頃に『とてもいい絵がある』『土絵に描いてみてはどうだ』と、一枚の飛天の絵を渡されました。榎本さんから土絵の題材を指定されたのは初めてのことで、早く完成させようとの思いでした。しかし土絵を入れる額が中々見つかりません。ふと土絵を始めた頃に榎本さんに作っていただいた額があることを思い出しました。その額を作る時、今は亡き大工の奥村さんが通りかかり榎本さんに『下手っぴーだなー、釘が出てるよ!』と。榎本さんは『俺は左官で大工じゃないから仕方ないじゃないか!』
よく見ると額縁に二か所も釘の先が出ていたのです。そんなお二人の会話をこの額が懐かしく思い出させてくれました。この額はハンダの下地もしっかり入れてあり、いつでも使える状態でした。
この飛天を描く為に十数年前に用意されたかのような不思議な感じになりました。飛天の背景に紗綾形(卍くずし)を入れ終わり、あとは天女さまを描くだけのそんな時に・・・悲しい知らせが届きました。榎本さんからの最後の宿題として肝に銘じて仕上げていきたいと思っています。


「千の風になって」が好きだった榎本さん。きっと大空から見守っていてくれると思います。
数々の温かい教えに心から感謝しています。そして土絵や泥だんごに興味を持って集まってくれる人々に、榎本さんの教えを伝え続けていきます。
末筆ですが、榎本さんのご冥福を心よりお祈りいたします。ありがとうございました。


合掌
2013.6.29

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